kawausonotetugakuのブログ

哲学書や思想書を使って現代社会を分析していきます。

マルクスを10分で解説 ①

今回はドイツの哲学者カール・マルクスが書いた『賃労働と資本/賃金・価格・利潤』(光文社古典新訳文庫)を

なぜ、サラリーマンが稼げるお金に限界があるのかその理由とともに解説します。

さっそく本題に入ります。

この本でマルクスは人間の労働には2種類あると考えました。

それぞれ『支払労働』と『不払労働』です。

この二つの用語を理解するためには会社がどのように成り立っているかを考える必要があります。

簡潔に言えば、会社というのは『剰余価値』という名の利益を生み出すことで存続しています。この剰余価値は誰が生み出しているのでしょうか?

経営者???

違います。その会社で働く会社員たちです。

要するに会社員が剰余価値を生み出すことで会社と経営者は存続できるのです。

マルクスはこの『剰余価値』は『不払労働』が生み出していると考えました。『支払労働』とは経営者が労働者に対して賃金を支払った分の労働のことを言います。これだけでは経営者は『剰余価値』を生み出すことはできないです。

なぜなら、支払労働のみを労働者にさせるとすると商品価値=支払労働だからです。要するに会社員の給料=商品価値になるわけで

これではお金は増えません。

そこで経営者は労働者に支払う賃金以上に労働者を働かせることを考えます。この労働が既に出てきた『不払労働』です。これは賃金以上の価値を労働者に生み出させるものですから、『不払労働』がそのまま『剰余価値』になるというわけです。

つまり、サラリーマンは皆、賃金以上の労働をしなければいけないということです。しかし、実際に給料として貰えるのは『支払労働』の部分のみです。この労働全体から『支払労働』を引いた『不払労働』が生み出したお金が経営者のポケットに入る。

これが資本主義社会における会社の真実なのです。サラリーマンが稼げるお金が限界があることはこの構造上の理由なわけです。

極端な話、サラリーマンが働いて結果的に儲けてるのは経営者だけです。

これがマルクスが暴いた資本主義社会の現実です。

 

参考文献

マルクス『賃労働と資本/賃金・価格・利潤』光文社古典新訳文庫 2014年

哲学書『プラグマティズム』から現代社会を考える

今回はアメリカ型の資本主義社会の基礎を形作ったとされるプラグマティズムの思想を通して現代日本社会を分析していきたいと思います。

日本は現状、アメリカ型資本主義社会に近づいてきているのは誰もが否定できない事実です。例えば、「トヨタ自動車の豊田社長が日本型資本主義社会の象徴であった年功序列型の雇用形態をこの先、続けることはできない」と明言したことは物議を醸しました。また、中村淳彦氏の『東京貧困女子』が出版され、学費を稼ぐために風俗嬢になる女子大生などの模様が描かれ日本における格差社会の進行が示されたこと、起業ブームなどこれら全ての事例が示しているのはただ一つです。

つまり、「従来の日本型資本主義社会からアメリカ型資本主義社会にシフトしている」ということ。

そのような訳で現代の日本社会を知るためにはアメリカ型資本主義社会を形作った思想を振り返ることが必須になります。

なぜなら現代日本の資本主義社会=アメリカ型資本主義社会になりつつあるのですから。

それ故に現代の日本社会を知るために『プラグマティズム』の思想を学ぶことが不可欠となります。

本題に入りましょう。

哲学者ジェイムズが説いた『プラグマティズム』とは簡単に言えば、効用や効率を重視し、自分にとっての利益を最優先に考える思想です。日本を顧みると、この思想がどれだけ幅広い世代に浸透しているかがわかるでしょう。例えば、仕事仲間との飲み会に参加しない人たちが多くいるという話をよく聞きます。

会社は仕事をする場であって仕事以外での付き合いは必要でないと考えていて、仕事以外での仕事仲間との飲み会は「自分の時間を削るだけで効率が悪い」と思っているのでしょう。

それ故に飲み会には参加しなくていいという判断に至るのです。

現代の日本社会はこの効率や効用という息が詰まる考え方が支配的になっているのは誰も否定できません。

逆に言えば自分にとっての効率や効用以外のことは考えないのがこのプラグマティズム的思考の特徴です。

この思想は自分の内において価値観として秘めている間は誰も傷つけないですし、自分の利益を求めることは悪いことではないのです。

しかし、プラグマティズム的思考が外部に飛び出して、他人にも押し付けのように示されるようになると話は別です。

ネットではよく、「そんなことをしても意味ない」「無駄だ」「お金にならない」などといった批判がよくされます。これは他人の価値観に干渉しているとも言えます。

本来、プラグマティズムとは自分に良い効果をもたらすものは真とする思想です。つまり、自分にとっての有益さを求めるものであり、本当は他人が偉そうに人様の効用のあり方に口出しをするというのはおかしな話です。

元々、プラグマティズムは多様性を認める考え方なのに他人に干渉するというようなことがSNSではよく見られる。

実際、『プラグマティズム』の著者のジェイムズも「プラグマティズムは一元論的言説ではない」といっています。一元論とは一つことしか認めない考え方です。それはそうですよね。他人にとっての効用はその人しか分かり得ないからです。一つのことしか認めないというのは不可能です。

楽しいという感情を一つとっても、人と話すのが楽しいとかジェットコースターに乗って楽しいとか一方でそれが苦痛という人もいるわけで。だから、ジェットコースターに乗ることが楽しい人にとってはジェットコースターに効用があると考えるし、ジェットコースターに乗ることが苦痛だと感じる人にとってはそこに効用を認めないのです。

しかし、『人それぞれであることを認めるという』プラグマティズムが拡がっているのにも関わらず現代日本社会に「押し付け的な議論」が目立つのはなぜでしょうか。

その原因はただ一つで、私はお金や学歴といった明確な基準が社会に現れてしまったからだと考えます。

プラグマティズムはある意味で明確な基準がない場合にはとても平和的な考え方です。なぜなら、他人にとっての効用なんていうのは人ははっきりと知ることができないからです。

他人の効用を知らないからそもそも「こっちの方が効用がある」といった干渉の仕方もできないので

他人がどんなに変なことをして効用を感じているとしても「まあ、人それぞれだしな」とそれで終わりなんですね。

しかし、お金や学歴と『プラグマティズム』が結びつくと話が変わるのです。

効用を金に換算することで他人にとっての効用を測れるように見え、それを勝手にわかった気になってしまうのです。

お金や学歴というものが出現した途端に『プラグマティズム』という思想は攻撃的なものに移り変わります。

かましくも他人の効用をお金に換算してそれを知った気になり「無駄だからそんなことやめろ」という暴言まで吐くことになる。

プラグマティズム』は本来、お金と結びついてはいけないものだったということが今回の話の中で明らかになりました。

つまり、『プラグマティズム』に『効用に関する明確な基準』というスパイスが混ぜ合わせられることで他人への攻撃的態度を助長させているのですね。

これがSNSでよく見られる『他人への価値観の強要』の正体だったということになります。