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哲学書や思想書を使って現代社会を分析していきます。

マックスウェーバー『権力と支配』を5分で解説

さて、さっそく本題に入りましょう。マックス・ヴェーバーにおける正当的支配の三類型を見ていきます。

『正統的支配には三つの純粋型がある。すなわち、それらの正当性の妥当は、主としてつぎのような性格をもつことがある。①合理的な性格をもつ。つまり、成文化された秩序の合法性、およびこの秩序によって支配をおよぼす権限をあたえられた者の命令権の合法性にたいする信念にもとづく(合法的支配)。――。あるいは、②伝統的な性格をもつ。――古くよりおこなわれてきた伝統の神聖や、それによって権威をあたえられた者の正当性にたいする日常的信念にもとづく(伝統的支配)。――あるいは最後に、③カリスマ的な性格をもつ。つまり、ある人物およびかれによって掲示されるか制定された秩序のもつ、神聖さとか超人的な力とかあるいは模範的資質への非日常的帰依にもとづく(カリスマ的支配)。(マックス・ウェーバー 濱嶋 朗 訳 『権力と支配』講談社学術文庫 2012年 P30)

純粋な三類型とはそれぞれ合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配です。

あくまでも純粋と付いているから分かる通り実際には伝統的支配とカリスマ的支配が混ざり合ったりしている場合が多いです。あるいはカリスマ的支配から徐々に伝統的支配に移行したり、合法的支配に移行したりするのが普通の流れなんです。

ここはよく多くの人が誤解する点なので気をつけなればいけないないですね。

また、政党についてのウェーバーの捉え方も大事です。

『政党は、個人的な利害関心に重きを置くか、没主観的な目標に重きをおくかするだろう。……没主観的「綱領は、局外者を関与者として獲得する手段にすぎないこともまれではない。』(前掲書P176.177)

つまり、消費税を減税するといったマニュフェストはあくまでも賛同者を増やすための場合もあるということです。個人的な利害関心か没主観的な目標のためなのかどちらか断定するのはなかなか困難な話だとは思います。

 

参考文献

マックス・ウェーバー 濱嶋 朗 訳 『権力と支配』講談社学術文庫 2012年

マックス・ヴェーバー『職業としての政治』を5分で解説

マックス・ヴェーバーはこの本の中で政治家には3つの資質が必要だと論じます。

『情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な基準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力――これは政治家の決定的な心理的資質である――が必要である。』(マックス・ヴェーバー 脇圭平 訳 『職業としての政治』2011年 P78)

この3つの資質(情熱・責任感・判断力)が揃ってやっと政治家として成り立つのだと。こういうことです。

さらに政治家において気をつけなければいけない点があるとヴェーバーは言います。

『だから政治家は、自分の内部に巣くうごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観的な献身と距離――ここ場合、自分自身に対する距離――にとって不倶戴天の敵である。』(前掲書 P79)

虚栄心に負けることが政治家が1番やってはいけないことなのです。

 

さらに政治家の性質として

『党派性、闘争、激情――つまり憤りと偏見――は政治家の、そしてとりわけ政治指導者の本領だからである。』(前掲書P41)

を挙げます。

この議論はヒトラーなどを振り返ってみるとまさにその通りのように思えますね。激情こそ民衆を動かすのですし政治家にあって当然ともいえます。

 

蛇足ですがルソーは政治を良くするためには民衆にも情熱が必要だと言います。

『というのは、全然熱情をもたない人間は、確かに極めて悪い市民であるだろうからである。』(ルソー 河野健二 訳 『政治経済論』岩波文庫 2018年 P37)

市民とは政治に参加している民衆のことです。政治を良くしたいならば政治家のみならず市民にも熱情つまり、情熱が必要だということなのです。

逆にいえば、情熱を持たない民衆は最悪の市民だと言えます

参考文献

マックス・ヴェーバー 脇圭平 訳 『職業としての政治』2011年

ルソー 河野健二 訳 『政治経済論』岩波文庫 2018年

 

 

ルソーと孟子の思想を5分で解説

ルソーと孟子の思想の共通点は人間が憐れみの心があるとして性善説に立っている点です。

まず、孟子から見ていきましょう。

『なぜ人にはみな人に忍びざるの心があるかというと、今かりに突然幼児が井戸に落ちようとするのを見れば、誰でもはっと驚き深く哀れむ心持ちが起こって助けようとする。それは子供を救ったのを手づるに、その両親に交際を求めようとするからでもなく、村人や友人にほめてもらおうとするからでもなく、見殺しにしたら悪口を言われて困るというので救うのでもない。利害損失を考えた結果ではなく、反射的にすることだ。』(『孟子 全訳注 』宇野精一  講談社学術文庫    2019年 P103)

つまり、誰でも子どもが井戸に落っこちそうになったら利害を考えずに助けるだろうということです。ですから、孟子は人間は誰しも憐れみの心を持っているはずだと言うわけなのです。

ちなみに孟子は人間を哀れむ心を惻隠の心と呼んでいます。

 

一方でルソーも人間には憐れみの心があることを『人間不平等起源論』という本で指摘しています。

『善意や友情すらよく考えてみれば、憐れみの情が特定の対象に、長いあいだ注がれるうちに生まれたものである。というのも、誰かが苦しまないことを望むということは、その人が幸福であることを望むことにほかならないではないか。惻隠の情とは、苦しんでいる者の立場において自分をみたときに生まれる感情にほかならないではないか。』(ルソー 中山元『人間不平等起源論』光文社古典新訳文庫 2013年 P105)

ルソーは友情や善意さえも憐れみの心から生まれたとする程に憐れみの情を根源的なものだと見なしています。さらには性善説に立っている点もホッブスとは異なる点でしょう。無意識にルソーが人間の共感性を含めているのも興味深いです。

 

『利己愛を作り出すのは理性の力である。そして省察がそれを強める。省察においては人間は自己のうちに閉じこもるのである。人間は省察しているあいだは、自分を苦しめ悩ませるものから遠ざかる。哲学こそが、人間を孤立させるのである。』(前掲書、P107)

ルソーが社会ができる以前の人間つまり、自然状態に置かれている人間の方が憐れみの情が強くなるという風に捉えていることがここから分かります。すなわち、理性が働く現代人の方が自己愛が強く憐れみの心が薄れているということです。

 

実は理性があるせいで憐れみの情が薄れると考える点も孟子は似たような指摘をしているのです。

『つまり、仁義礼智の徳は、めっきのように外から我が心を飾りたてるものではなく、自分が元来心にゆうするものなのである。』(『孟子 全訳注 』宇野精一  講談社学術文庫    2019年 P350.351)

つまり、人間は元々善の心がしかないのに後々に理性によって悪に転じると捉えている点がルソーと全く同じです。

 

ルソーと孟子という生きた時代も生まれた土地も違う哲学者が同じような結論に至るというのはとても面白いです。

東洋哲学と西洋哲学は遠いようで実は近いのかもしれませんね。

 

参考文献

孟子 全訳注 』宇野精一  講談社学術文庫    2019年 

ルソー 中山元『人間不平等起源論』光文社古典新訳文庫 2013年

 

デカルト 『方法序説』を3分で解説

近代以降の哲学者は全員、デカルトの影響を受けていると言っても過言では無いです。そんな哲学界の最重要人物が書いた『方法序説

早速本題に入りましょう。

デカルトは自分自身に4つの規則を与えます。

『第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。……第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。第三は、わたしの思考を順序に従って導くこと。そこでは、単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段をのぼるようにさして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。そして最後は、全ての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。』

(デカルト 谷川多佳子訳 『方法序説岩波文庫 2015年 P28.29)

つまり、数学的な手続きで哲学をしていくということです。数学的な手続きを利用するためにはまず、公理を見つけ出さなければならない。

このデカルトにとっての公理がかの有名な

『我思う故に我あり』です。

つまり、デカルトにとって『我思う故に我あり』は先程引用した第一の規則に基づいてわたしが明証的に真であると認めるものなのです。

これがデカルトの考え方であり最重要ポイントです。

ちなみになぜ『我思う故に我あり』になるかと言えば、

デカルトはまず、ここに至るために全てを疑いまくるのです。そして、この全てを疑うという判断を下している私の思考は存在しているのだから私も存在するという論理なのです。

デカルトはこの『我思う故に我あり』という公理を用いて哲学を数学した人物なのです。

 

参考文献

デカルト 谷川多佳子訳 『方法序説岩波文庫 2015年

『君主論』を5分で解説

マキアヴェリが『君主論』で示した帝王学とは何か。

さっそく本題に入ります。

 

『人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を、容赦なく傷つけるのである。その理由は、人間はもともと邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害のからむ機会がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。ところが、恐れている人については、処刑の恐怖がつきまとうから、あなたは見離されることがない。ともかく、君主は、たとえ愛されなくてもいいが、人から恨みを受けることがなく、しかも恐れられる存在でなければならない。なお、恨みを買わないことと、恐れられることとは、りっぱに両立しうる。これは、為政者が、自分の市民や領民の財産、彼らの婦女子にさえ手をつけなければ、かならずできるのである。……人間は父親の死はじきに忘れてしまっても、自分の財産の喪失は忘れがたいものだから、とくに他人の持物に手を出してはいけない。』(マキアヴェリ 池田廉訳 『新訳 君主論』2010年)

例えば、皆さんは母親に強く当たってしまい、傷つけてしまった経験がありませんでしたか???一方で怖い父親に対しては恐れているために反抗なんてしないはずです。

マキアヴェリは君主言いたいのは愛される母親になるよりも怖がられる父親のようになる方が好ましいということなのです。

なぜ父親も恐れるのかと言えば、子どもにいつでも制裁を加えられる立場だからです。極端な話を言えば処刑を恐れるわけです。

『人間は困難が目に見えているような企てについては、かならず尻ごみするもので、まして城下のそなえが徹底していて、民衆の恨みもかっていない国を、たやすく攻め落とせるとは、だれしも思わない。』(前掲書、P65)

先程の例で考えれば処刑という困難をわざわざ選ぶような不合理な人間はいないわけです。

であるから、処刑(社会的制裁も含める)をいつでも行える人間つまり、恐れられている人物に歯向かう人はそうそう居ないと考えられます。

だから、マキアヴェリ

愛されるよりも恐れられよというわけですね。

これがマキャヴェリ帝王学です。

 

参考文献

 

マキアヴェリ 池田廉訳 『新訳 君主論』2010年

オルデガ『大衆の反逆』を10分で解説

スペインの哲学者オルデガ・イ・ガセットが書いた『大衆の反逆』は現代社会を理解する上での必読書です。

今回は『大衆の反逆』について解説していきます。

この本の画期的な点は大衆を階級的な視点で捉えていないことです。どういうことか、実際に見てみましょう。

『したがって社会を大衆と優れた少数者とに分けることは、社会階級による区別ではなく、あくまで人間としての区別なのであって、上層階級と下層階級という序列ではない。』(オルデガ・イ・ガセット 佐々木孝訳「大衆と反逆」岩波文庫 2020年)

そうオルデガが言う、大衆とは一般民衆という意味合いではないのです。会社員だから大衆だとか、ましてや人種などによる区別でもありません。あくまでも人間性の観点から大衆を捉えるのです。

では、どういう人達が『大衆』と呼ばれるのでしょうか?

 

『大衆とはおのれ自身を特別な理由によって評価せず、「みんなと同じ」であると感じても、そのことに苦しまず、他の人たちと自分は同じなのだと、むしろ満足している人たちのことを言う。』(前掲書、P69)

 

つまり、オルデガ曰く、大衆とはみんなと同じであることを望む人たちなのです。みんながそうしているからと足並みを揃え、満たされるように感じる人たちのことを彼は『大衆』と定義しているのです。

 

続いて、オルデガはなぜ人々が20世紀に突入して生きづらさを感じ始めたかについても説明を加えました。

『すなわち、私たちの生は、可能性の選択肢としては素晴らしく豊かであり、歴史上知られたどの時代よりも優れている。しかし、その規模が他よりも大きいというまさにその理由から、伝統として残されたあらゆる河床から氾濫し、原理や規範や理想を超えだしてしまったのである。それは他のどの生よりも生そのものだが、しかし、まさにそのためにより多くの問題を孕んでいる。過去からの方向付けが不可能なのだ。だから、おのれ自身の運命をおのれで作り出す必要に迫られる。』(前掲書、P114)

ここで彼が言いたいのは、人生や思想における選択肢が大きくなりすぎたということです。19世紀までは合理論という思想(理性が万能であるとする思想)が支配的で理性によってどこまでも世界が広がっていくように感じられました。理性によっていずれ真理に到達できるだろうという合理論が圧倒的に人々の心を支配していたのです。

つまり、合理論という最強の哲学によって進むべき道は定められ、それは過去からずっと繋がっているという意識が確かにあったのです。

しかし、理性が万能であると信じていた人たちの心が打ち砕かれる出来事が起きました。それが第一次世界大戦第二次世界大戦です。つまり、理性が生み出した科学兵器が人間を殺戮しまくるという大事件が起きました。

この大事件によって理性は万能ではないということが証明されてしまったのですね、

今まで理性が万能であるという合理論を信じて敷かれたレールに走っていた人たちは突然、道を閉ざされた形になります。

そして、合理論という最強の哲学が除外された結果、何が正解かがわからなくなってしまったのです。そして、過去の思想に頼ることもできなくなり、自分たちで新しい思想を見つけ出す必要が出てきた。

これが『おのれ自身の運命をおのれで作り出す必要に迫られる』ということの意味です。

 

自分で生きる考えを導き出そうとした実存主義の哲学が合理論と交代して登場したのもこれが理由です。

我々は過去に頼ることができなくなり、自分たちで正解を見つけ出さなければいけなくなったことが私たちの生きづらさの正体とも言えるのです。

 

最後に蛇足ですが夏目漱石もオルデガともっと分かりやすい言葉で似た指摘をしているので見ていきましょう。

『今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越している。それが変化してむしろ生きるか生きるかという競争になってしまったのであります。生きるか生きるかというのは可笑しゅうございますが、Aな状態で生きるかBな状態で生きるかの問題に腐心しなければならないという意味であります。活力節減の方で例を引いてお話をしますと、人力車を挽いて渡世するか、または自動車のハンドルを握って暮すかの競争になったのであります。』(夏目漱石『私の個人主義講談社学術文庫 1978年 P52)

身分制の時代は農民として生まれた以上は農民として生きるか死ぬか以外を選ぶことは不可能でした。しかし、身分制が消滅して様々な選択肢が出てきた結果、逆に生きづらくなってしまった。これを夏目漱石は生きるか生きるかの時代の到来と呼んでいるのです。

 

 

参考文献

オルデガ・イ・ガセット 佐々木孝訳

「大衆と反逆」岩波文庫 2022年

 

夏目漱石『私の個人主義講談社学術文庫 2018年

ダニエル・ベル『資本主義の文化的矛盾』を5分で解説

さっそく本題に入りましょう。

ダニエル・ベルが『資本主義の文化的矛盾』で言いたかったことは政治・経済・文化の3つのそれぞれには独自の法則が備わっているんだということです。

『かくして、社会変化には三つの異なった「リズム」があること、この三つの領域には、単純かつ明確な関係はないこと、が明らかになる。技術―経済体制の変化の本質は直線的であることだ。効用性と能率の法則が支配しており、革新、排除、代替について明白な規則を提供しているからだ。より能率的あるいはより生産的な機械やプロセスが、能率的に劣るものにとってかわる。これが進歩の意味のひとつである。しかし、文化においては、リコルソ(recorso)すなわち、人間の実存的苦悩たる関心や疑問への回帰が、常に行われる。……現代文化とは、自己実現と自己完成を達成するために「自己」を表現し作り直すものだ、という中心的な法則である。……形式上は平等と参加を建前とする政治形態』ダニエル・ベル 林雄二郎訳『資本主義の文化的矛盾』講談社学術文庫 昭和60年 P41〜44)

経済の根底に流れている法則は効率であり、文化は自己実現つまり、自己満足を法則としていて政治は平等が法則なわけです。

つまり、政治・経済・文化は本来、それぞれ進む方向性が違うのです。つまり、この三者には必ずねじれが起きるとベルは考えました。

これがダニエル・ベルが『資本主義の文化的矛盾』で展開した最も重要な論点です。

現代日本社会は政治とカネの癒着が問題視されていることから政治が平等という法則から逸脱しつつあり、効率という経済寄りにシフトしているとも考えられますね。

 

参考文献

ダニエル・ベル 林雄二郎 訳『資本主義の文化的矛盾 上』講談社学術文庫 昭和60年

ダニエル・ベル 林雄二郎 訳『資本主義の文化的矛盾 中』講談社学術文庫 1990年

ダニエル・ベル 林雄二郎 訳『資本主義の文化的矛盾 下』講談社学術文庫 1996年